光希まさとの創造の世界へようこそ!
つれづれなるままに、硯にむかひて、心に移りゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。

かのエミール・ガレが「私の根は深く土に潜りている」と言いし如く、わが魂もまた日本の地に根差しつつ、ガラスという西洋の技に魅せられたり。ガレが自然を深く観察して得たる「植物の秘密の言葉」を、わが身にも宿らせんと思う日々なり。

このたび、和服の女性をガラスに包み込む試みをなしたるが、これぞまさに東西の美の融合というべきか。ガレが「ガラスとは、光と熱と時間の産物である」と語りしように、この作にも光と熱と時間を注ぎこみぬ。

古き昔より日本人は、桜の花びらの儚さに美を見出だし、葉の間を透過する光に心を打たれ来たれり。今、そのまなざしをガラスの透明感に移し、儚きものに永遠の命を吹き込む試みとなりにけり。

ガレの愛でし「マルケトリー技法」と「アシッドエッチング」の精神を継承しつつも、デジタルの海に浮かぶ新たな表現を求めたり。幾重にも重なる花のガラス層は、まるで時間そのものが結晶化したかの如し。

女性の肌の柔らかさと、ガラスの硬質な輝きとの対比こそ、大和の心と西洋の技の出会いと言うべし。花々を永遠の時の中に封じ込め、それでいて生命の息吹が感じられる、この矛盾こそがガラス芸術の神髄なりけり。

ガレが「私の作品は、花々の美しさを永遠のものとするための、一つの挑戦である」と語りしことを思い出す。わが作品もまた、桜や梅の美しさを永遠に留めんとする挑戦の一部なり。

ガラスの透明感と女性の存在感が融合するとき、そこに生まれるは単なる美しさに非ず。ガレの言う「物質に宿る魂の表現」としての芸術なり。ガラスに閉じ込められし花々と女性の姿は、見る者の心に語りかけ、魂を揺さぶるなり。

目を閉じる女性の表情には、どこか物思いにふける静謐さあり。ガレが好みし「エングレービング」の精神に倣い、表面の向こう側にある深遠なる世界を表現せんと試みたり。

かくして、和と洋、柔と剛、有限と無限の境界に立ちて、新たなる美の追求を続けん。ガラスの持つ永遠性と、花の持つ儚さが交錯する世界こそ、わが求むる「ネオジャポネスク」の道なりけり。

つれづれなるままに 光希まさと
Essays in Idleness – Modern Edition “Enshrining the Soul of Flowers in Glass”
